HeartBreakerU 9
「私を……私、薫の組織に行きたいの。変若水の研究に適合者として協力させて」
「……は?」
千鶴の言葉は思っても見なかったものだったようで、薫は珍しく目を見開いてキョトンとした顔をした。
「薫の組織には、初期の頃の変若水があるんでしょう? 私、それを飲みます」
「……」
唖然としている薫に、千鶴はたたみかけるように続ける。
「私が変若水を飲めば――私の血で変若水のウィルスを安全に変異させて『血のマリア』になれば。『血のマリア』から伝染された人は狂ったりしない羅刹になるんでしょう? それなら……」
そこまで言いかけた千鶴の言葉は、薫の笑い声で遮られた。
「はっ……はははっ…あーそうか! あっははははは! なるほどね! 伝染力もあり狂わない完璧な羅刹をつくりだすってこと? その研究に自分を捧げるから、沖田を助けて欲しいってことか!」
薫はそう言うと、更にしばらく笑い続けた。
「そう来るとはね……その発想はなかったな。なるほどね。じゃあ今夜お前はここに変若水を探しに来たってわけか」
千鶴はコクンとうなずいた。
「でも無かった。大久保のおじさまは全部破棄したって言ってたし、多分もうここには父様の開発していた変若水は無いんだと思う。だから薫に協力できないかと思ったの。薫は組織で変若水とか羅刹の研究をしているんでしょう?変若水をもらう代わりに薫の研究に私も協力する。その……綱道の父様が言っていたAIDSみたいな伝染し方とかには協力できないけど、普通にちゃんと温度管理して注射とかで伝染せないかとか、血を飲みたくなる発作を治せないかとか、狂うことがなくなるとかそういう方面の研究になら全面的に協力したいと思ってる。だから、私を組織に連れて行って欲しいの」
結局自分は『血のマリア』になってしまうのか。
千鶴が組織に行けば、沖田が命をかけて変えてくれた世界は、また再び羅刹の支配する世界になってしまう。
それに『血のマリア』になっても狂わないという確証なんてない。前の時間で『血のマリア』になった時、千鶴は抗いようのない強い血の衝動を感じた。自分の奥の奥で不気味な獣が目覚めるような感覚も。必死に抑えていたけれど抑えきれなくなる予感は――予感ではなく確信があったのだ。でも。
でも三年よりは時間が稼げるはずだ。千鶴の血ならば。そして時間が稼げれば稼げるほど、沖田を救える可能性は高くなるのだ。薫の組織ともその点において目的や利害は一致しているのだから全面協力を得られるだろう。それに沖田は、二十年後の世界では『血のマリア』の血液から、羅刹を人間に戻す薬をつくることができると言っていた。『血のマリア』の全面的な協力があれば、二十年後ではなくもっとはやくにそんな薬がつくれるようになるかもしれない。羅刹を増産したい組織の希望とは真逆の薬だが、でも毒は薬――解毒剤があればこそ効果を発揮するのだ。組織を説得してそんな薬を研究してもらうことは可能だとも思う。
そうは思うものの、千鶴はまだ迷っていた。
沖田がいてくれれば……沖田さえ。そんな千鶴個人の願いのために羅刹の支配する世界にしてしまってもいいのだろうか。
沖田が未来を捨てて過去に来たのは、そんな世界を阻止するためなのに。
だが、このままでも羅刹が世に溢れていくのは変わらないのだ。組織の研究は進んでいる。千鶴の血がないせいで不完全なままだが羅刹の勢力が強くなっていくことは確実だ。
沖田がいれば。狂わずに一緒に戦えるのなら。それならそこからまた戦えるかもしれない。組織の中枢に入り込んで、千鶴たちの味方を増やしていくこともできるかもしれないのだ。
どの道をとるのがいいのか、千鶴にはわからなかった。
世界のこと。人間のこと。自分のこと。沖田のこと。そして薫のこと。
どれを優先してどれを切り捨てるのが正しい選択肢かなんて、わからない。わかるのは十年後二十年後だろう。いや、それも正しいか正しくかないかはその人の立場による。
正解なんてないのだ。
思うとおり、望む通りに全力をつくして信じる道を行くしかない。
千鶴は再度心を決めて、薫をまっすぐに見た。薫はふいと視線をそらして本棚によりかかる。
「……組織にお前をね……どうしようかな……」
それきり、薫は何か考えを巡らせているのか黙り込んでしまった。千鶴はしばらく黙っていたが、ふと前々から気になっていたことを思い出した。
「薫は……薫はどうして『血のマリア』のことを知ってるの?」
薫は、千鶴を見る。その目は千鶴によく似た黒目がちの濡れた瞳だった。
「……お前と同じだよ。ある日突然『思い出した』」
そこから薫が話してくれたことは、千鶴が二つの世界の記憶を持った経緯と同じだった。
薫にとっての二つの世界、それは『薫が綱道を殺さなかった世界』と『殺した世界』。
薫は以前から日本での綱道の動きを探っていて、千鶴の(薫もだが)二十歳の誕生日に綱道が彼女に変若水を飲ませるつもりであることを予測していた。そのため薫は、組織の目を盗んで山荘に行き、プロパンガスに細工をして綱道一人が台所に来たタイミングで爆発させ、綱道を殺すことに成功した。
不審な銀髪の男が邪魔をしてきたが、まあ首尾は上々だと薫は思っていた。ところがある日、全く別の『記憶』が頭に植えつけられていることに気づく。
「最初はとうとう狂ったかと思ったよ。幻覚幻聴睡眠障害に頭痛……その上とうとう記憶障害と現実と妄想の区別がつかなくなったのかってね。でもしばらくして落ち着いたらわかった。今とは違う時間の流れの世界の話なんだろう?」
千鶴は目を見開いたまま頷いた。
自分や沖田のように二つの世界の記憶を持った人間がこの世にいたなんて。
守衛さんや大久保は、なんとなくあいまいに覚えているような覚えていないような…という感じだったのに。
薫が山荘に行かなかった世界では、薫は組織に見咎められ抜け出すことができなかった。千鶴は変若水いりのワインを飲み、沖田に出会う。その後の経緯は、薫が綱道の社長室に仕掛けた盗聴器や組織の情報収集で全て把握していたらしい。
覚えている人間と忘れてしまう人間の違いはなんなのかと千鶴が不思議に思っていると、薫はくすりと笑った。
「そういえばこの世界で山荘を燃やしたあと、面白いものを拾った」
「……面白いもの?」
「黒くて重くてこれくらいの大きさのさ。林の中に唐突に落ちてた」
薫は『これくらい』と指でサイズを示す。首をかしげている千鶴に、薫は言った。
「沖田が未来から持ってきたタイムマシンだろう?」
薫が言った特徴は確かに、千鶴が見たことのある沖田が持っていたタイムマシンの特徴と似ている。
「沖田さんの持ってたタイムマシンに似てるけど……どうして薫はそれをタイムマシンだと思ったの?」
薫は意味深な笑を浮かべて、千鶴を見た。
「……俺が……俺たちが基礎理論から組み立てたタイムマシンの設計思想と全く同じものだったからさ。さっき、お前、俺が変若水とか羅刹とか研究してるみたいなこと言ってたけど、おれの研究はそれじゃない」
薫の言っている意味がわからず千鶴は眉をひそめた。薫は口の端にうっすらと笑みを浮かべる。
「俺が研究しているのは時間の跳躍……タイムトラベルだよ」
「タイムトラベル?」
「そう。組織に行ってしばらくしたころ、俺の羅刹の頭脳が認められて変若水の研究に協力することを条件に好きな研究室に入って研究する自由をもらった。俺は時間と空間の研究――タイムトラベルの研究室を選んだんだ。研究室には羅刹になった研究員もいるよ。人間じゃなくなってもいいから時空の謎を解くことを選んだ科学バカさ。そうやって人間を超えた頭脳で、タイムマシンの基盤となる理論と初期設計図は完成した。だが、そのタイムマシンを稼働させるためにはとんでもないエネルギーが必要で、現代でそれを発生させるには原子力しかない。実際の原子力発電所を利用してタイムマシンを稼働させることは可能だが、そうなるとタイムトラベルは片道旅行で帰ってこられない。マシン自体を軽量化し、なおかつ膨大なエネルギーを確保するにはどうすればいいかというところで研究は壁にぶちあたっていた」
突然話し出した薫の専門的な研究内容に、千鶴は目を瞬いた。薫は続ける。
「そしたら俺の二十歳の誕生日に、日本の東北の山の中で、殺したいと思い続けていた男を殺したあとで、その設計思想を具現化したタイムマシンを拾った」
「……え?」
「それは、俺たちが苦戦していたエネルギー源を、原子力電池とでもいうようなコンパクトで取り換え可能なもので実現していた。正直、見たときになるほどと思ったよ。これなら電池を所持している限りタイムトラベルを続けることができるし、電池容量をコントロールすれば発生するエネルギーを強くも弱くもできる。よくできているよ」
「……どういうこと? 薫たちの研究を誰かが薫に内緒で成功させていたの? 東北の山の中ってあの湖のそばの別荘だよね? 父様が開発していたの?」
薫は首を横に振った。
「あれは、あの別荘の裏で沖田が落としたものだ。ということは、俺たちが今研究開発しているタイムマシンは、羅刹たちの優れた頭脳により多分二十年後に完成したんだ。そしてそれを使って沖田が過去にタイムトラベルをし、お前に会い、さらにもう一度タイムトラベルをして二十歳の誕生日にあの別荘で俺に会った。そして俺が、その時沖田が落としたタイムマシンを拾ったって訳さ。見事なループだね」
複雑な話に頭がこんがらがった千鶴が黙っていると、薫は脚を進めて千鶴の近くまで来た。
「『不変理論』って知ってる?」
またもやとんだ話に千鶴は面食らいながらも頷いた。それなら以前あの山荘で沖田から聞いた話だ。
薫は頷く。
「多分……羅刹が世界にあふれることとタイムマシンが完成することは、変えることができないんだろうね。あの山荘で綱道が死ねば世界は代わるかと思ったけど」
「薫……薫は、世界をどんなふうに変えたいの?」
「……変若水の力を利用しようとするやつらにいいように弄ばれるのはうんざりだ。適合者の俺たちが、変若水の力を利用する側にまわるのは当然の権利だろう?」
薫は千鶴を睨む様にそういうと出口の方へと歩き出した。
「薫!」
「俺は世界を変える。綱道は殺したけど、時期が遅すぎたんだ。今度は赤ん坊の俺たちを綱道が見つける前に、綱道を殺す。適合者無しで変若水ウィルスを不活性化するのは不可能だ。適合者の遺伝子が欲しいのならこちらの要求をのむ様に綱道のいない綱道コーポレーションに交渉し、実権は俺が握る。過去に行った俺がそう変えてみせる。変若水を自由にする力があれば……世界を支配するなんて子供番組の悪役みたいなことも現実にすることが可能なんだよ。それには時間を遡る力が必要で、そしておれはタイムマシンを手に入れた」
千鶴は目を見開いた。
「薫……! 薫、沖田さんのタイムマシンでタイムトラベルをするつもりなの? でもあれは繰り返すと危険だって、盗聴してたなら薫も知ってるでしょう? 血を吐いた沖田さんを見てるのに!? それに沖田さんのタイムマシンにはもうエネルギーがないって……」
薫は出口のノブに手をかけて、皮肉っぽく笑いながら答えた。
「俺は幸いにももう羅刹だから、タイムトラベルの負荷がかかっても羅刹の力で治すことができる。それにエネルギーの話も、原子力電池は確かにこの時代にはまだ小さなエネルギーのものしかないからタイムマシンにつかうことはできないけど、原子力そのもののウランペレットで代用することは可能だ」
「ウランペレット?」
「そう。原子力潜水艦や原発で普通につかわれている。残念ながらウランペレットを使ったらタイムマシンの出力が上がりすぎて壊れるだろうけど、一度限りならタイムトラベルはできるはずだ」
「……どういうこと? 一度はって……じゃあ、過去に行ったらもう帰ってこられないの?」
薫は肩をすくめた。
「別にこの時代に離れがたい未練があるわけじゃないし、綱道をこの手で殺せるのなら戻ってこれなくても悔いはないよ」
「でも……! でも、じゃあでも薫はどうなるの?過去に行った薫は……」
「……俺が、俺たちがまだ赤ん坊の時代に戻って思った通りに綱道を殺したとして、それが今の世界にどんなふうに影響を与えるかなんて誰にもわからないよ。ひょっとしたら沖田がいきなり消えちゃうかもね。でもお前が『血のマリア』になることは二度となくなるし、綱道や組織に狙われることもなくなる。ずっとこの世界にいて、自分がいつ狂うのかもう狂っているのか、毎日毎時間不安と恐怖に侵されながら生きていくのはもううんざりなんだよ」
吐き捨てるようにそう言う薫に、千鶴はショックを受けた。
「狂うって……薫はだって、適合者じゃない。そんなにすぐには狂ったりしないんでしょう?」
薫は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「成長途中で変若水を飲んだせいで、俺の遺伝子はいくら適合者だといってもウィルスを完全に不活性化はできなかった。一般の羅刹よりはよっぽど理性を保てる時間は長いけど、それでもいつか狂うのは火を見るより明らかな事実さ。実際もう症状は進んでる。俺が何年前に変若水を飲まされたと思ってるんだ?」
薫はそう言いながら、自分の手を見た。
時々見る幻覚。血で染まった自分の手。
「……昔のことで思いだせないこともある」
顔をそむけてそう言った薫に、千鶴は言葉を失った。沖田だけではなく薫までも。
「わ、私……私がやっぱり変若水を飲まないと……! 飲んで、『血のマリア』になって研究をすれば、きっと薫も沖田さんも……! お願い! 私を組織に連れて行って! ちゃんと適合者として協力するから……」
必死に言い募る千鶴を、薫は冷たい瞳で見た。そして薫は、「さて」と言ってもう一度ノブに手をかけた。
「俺はそろそろ帰るよ。沖田によろしく」
そう言って立ち去ろうとした薫に千鶴はとりすがった。
「待って! 薫は……薫の組織は私で研究がしたいんじゃないの? 薫もそれで前に私をさらったんでしょう。変若水を飲むって私は言ってるのにどうして連れて行ってくれないの? 薫だって狂わないでいられるようになるかもしれないのに!」
出口に向かっていた薫は、千鶴の言葉で振り向いた。
「組織は確かにね。お前を欲しがってるよ。俺は……まあちょっかいを出すのが面白かったからつきあってただけさ」
そして薫はしばらく考えるように黙り込んだ後、再び千鶴を見た。
「……綱道コーポレーションの旧館は知ってる?」
再びとんだ話に、千鶴は目を瞬きながらも頷いた。大きな焼却炉があるだけで他はもう使われていない古いビルだ。前に綱道の社長室の壁をぶち抜いて沖田と逃げたことがある。
「そこの三階と四階の間がふつうの階の間よりも広くなってる。俺の……俺が昔閉じ込められていた研究階がそこの間に隠されているんだ。暇なら行ってみたら? そしたら簡単に『変若水の被験者として組織に行く』なんて言えなくなると思うよ」
薫はそう言うと、もう話は終わったときっぱりと千鶴に背を向けて資料室のドアをあけた。
暗い廊下に資料室の明かりが、ドアの形にぽっかりと浮かぶ。
薫は振り向きもせず、その暗闇の中へと溶けるように姿を消した。
冷たいタイルの床一面に広がったファイルと紙。
その真ん中で千鶴はうずくまって涙を流していた。もう頬を伝う涙をぬぐう気力もない。
顎から落ちた一滴が、ボールペンで書かれた七歳の薫の記録に落ちてシミを作る。
そこには変若水投与後の適合者の実験結果が淡々と記されていた。
血の発作に苦しむ七歳の少年に、どこまで血を与えずに我慢させることができるか。驚異的な羅刹の力は、水を何日飲まずに耐えることができるか。毒物を与えた際、病原菌を投与した際、物理的な怪我、損傷、損壊、精神的な圧力……
五歳から逃げ出すまでの約十年間、千鶴が綱道の娘として学校に通って勉強して友達と遊んでケンカして、のどかな生活を送っている裏で、薫はずっとここに閉じ込められてこんな経験をしてきていたのだ。
頼る人も愛情をくれる人も守ってくれる人もいない環境で、将来の望みもなく、延々と。
胸が痛い。
千鶴はうずくまったまま自分の腕を抱きしめるようにして嗚咽を我慢した。タイムトラベルが可能なら、このころの薫のもとへと行きたい。行って助け出し、傍にいて、抱きしめて大事にしてあげたい。
それよりももっと千鶴の胸を切なく締め付けるのは、薫自身がこの記録を見るようにと千鶴に言った理由だった。
千鶴が組織に行き変若水の被験者となったら。
当然ながら『血のマリア』のスペックを調べるために様々なストレスを与えられ、それを記録されるだろう。自由は、子どもの頃の薫よりはあるとはいえ、身柄は組織に拘束されているのだから自分の好きに動くことはできない。そしてその実験がいつ終わるかなど誰にもわからないのだ。最悪の場合、人に伝染すのは、綱道が考えたようにAIDSが世界に広まったような伝染しかたがベストだと結論付けられたら、もちろん千鶴はそれを強要され断ることもできないだろう。
薫はそれをわかっていたから……だから千鶴を組織に捕えさせないようにしていたのだ。
千鶴のために。
千鶴が苦しむのを願っていると会うたびに言い、沖田に変若水を飲ませ、大久保を殺した薫が。言っていることとやっていることが相反しているが、薫自身も自分の気持ちをどうすればいいのか混乱しているのだろう。しかし結果としては千鶴を守ろうとしてくれている。
「……私は、どうすればいいの……?」
薫の思いと、血の発作に苦しむ沖田。千鶴達を追っている組織と、過去に飛んで綱道を殺すと言う薫。
どれをどうしたら、みんなが幸せになれるのか。みんなを幸せにできるのか。
泣いて泣いて空っぽになった千鶴は、かなりの時間がたった後ようやく重い体をあげて資料を片付け始めた。散らばった紙をまとめてファイルをもとの書棚――『A』『B』『C』と印のあるスチール製の書棚は、この旧館にある薫の実験室にあった――へ戻していく。
最後の一つを収めたとき、千鶴は書棚の一番下の端、目立たないところに薄い背幅の本が置いてあることに気が付いた。他の書類とは趣が違う背幅に、千鶴はしゃがんでその本と取り出してみる。
「これ……」
以前、本屋で千鶴が見つけた買った絵本と同じものだった。昔持っていたような記憶があった、赤ちゃんたちが神様からおくりものをもらう話の絵本。
しかし今この部屋で見つけた絵本は、千鶴が買った物とは違い表紙の艶もなくなり紙も古くうっすらと黄ばんでいる。表紙をめくって中を見てみると、大事にされていたのかほとんど汚れもなく折り跡もない。ただ、ところどころかすかに小さな指跡が残っていた。
「どうしてここにもあるの……」
改めて問い直さなくても、千鶴にはわかった。これは多分、千鶴と薫がまだ二人でいたころに持っていた本だったのだ。
きっと子供の頃の二人は何度も母親から読んでもらったのだろう。
それを薫が持っていたのか、それともここで生活しているときに同じものを買ってもらったのか。
『ちづるはいっつもほっぺがあかいから、たぶんおくりものはえがおだよ』
ふいに小さな子の声が聞こえたような気がした。そして大人の女の人の笑い声。
『そうかもね。千鶴はよく笑う赤ちゃんだったし』
……お母さん
それは、ほとんど記憶にない千鶴と薫の母親の声だと、直感的にわかった。
この部屋にいた薫にとってはこの絵本だけが、幸せな記憶だったのだろう。
千鶴は、我慢できずに声を殺して泣き出した。
旅館に帰ったのはもう夜が明ける寸前だった。
揺れ動く感情に疲れ切ってぼんやりと車を運転してきたが、早朝の街はほとんど車がいなくて助かった。運転席の扉を閉めた音で千鶴は我に返って視線をあげた。
昨夜沖田と見た月はもう見当たらず、朝のぼんやりとしたピンク色が空を染めている。空気が澄んでとてもきもちのいい景色なのに、千鶴はまるで遠い世界のように何も感じなかった。何処か麻痺した心のままで旅館のフロントを通り自分の部屋へと向かう。
部屋のドアを開けた千鶴は、中で驚いたようにこちらを見た沖田と目があった。
沖田は既に起きており、着替えて銃を持ち、出かける直前のようだ。
「起きてたんですか? どこかに出かけるんですか?」
「どこに行ってたの!」
つかつかと歩み寄った沖田に両腕を掴まれて、強い調子でそう尋ねられ、千鶴はパチパチと目を瞬いた。
「どこへ……」
「そうだよ! 起きたら君はいないし、待っても帰ってこないし車のキーもないし! どうしたの? なにかあった? 顔色が悪い……」
そう言って沖田は千鶴の顔を覗き込んだ。
目が真っ赤で頬に涙の跡がある。それに瞳にいつもの表情がなくどこかうつろだ。ぱっと全身を確認したところ怪我はしていないようだが動きがどこかぎこちない。
「……なにがあった? どこに行ってたの」
沖田の緑色の瞳が真剣な色帯びた。千鶴は何も考えられないまま機械的に答える。
「父様の会社に……綱道コーポレーションに行っていたんです。……そこで薫と会いました」
息を呑む沖田の目の前で、千鶴はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「いろんなことを聞いて、わかって……私、どうすればいいかもうわからない……」
倒れこむ様に沖田の胸にすがった千鶴を、沖田はわからないまま抱きしめた。
沖田に抱きしめられながら、千鶴は綱道コーポレーションに行った理由、薫と会った事、薫に言われたこと、薫が子どもの頃閉じ込められていた実験施設の事……すべてを沖田に話した。
話し終えた頃にはもうすでに外は明るくなり、人の話し声や車のエンジン音が聞こえてくる。
「……とりあえず、頭も体も限界だろうからゆっくり眠りなよ。起きてからまた話そう」
沖田の言葉に千鶴は首を横に振った。
体は自分のものでないように重いし、頭も濡れた紙でもつまっているような不快感があるし、睡眠不足からか目の奥が重く痛い。でも心の一部が異様に興奮していてとても眠れそうにない。
「意地っ張りだなあ……。自分では気づいてないだろうけど、さっきから真っ青な顔してるよ」
「……」
確かに限界に近い自覚はあるけど、あんなにいろいろショックなことがあったあとでのんびり眠ってなんて……そう思っていた千鶴は、沖田に抱き寄せられた。沖田はそのまま自分の肩に千鶴の頭を乗せる。
「ほら僕も一緒に寝るから。一緒に眠れば眠れるでしょ?」
「……」
沖田のいたずらっぽい言い方に千鶴は頬を赤らめた。
千鶴が羅刹になりかけのころ、昼夜逆転の睡眠になり苦しんでいても沖田と一緒に眠るとなぜか眠ってしまっていた。そのこをとからかっているのだ。でもなぜか沖田のそばにいて、彼の体温と匂いに包まれていると安心して全身がリラックスしていくのだ。力が抜けて、まぶたが降りてきて………
そうして千鶴は今回も、あっという間に沖田の胸の中で眠りについたのだった。
寝る前に受けた精神的ショックと、変な時間に寝たせいで、千鶴は起きてからしばらく、ぼんやりとしていた。
心も頭も空っぽで、体から力が全て抜けてしまったように感じる。そうして千鶴は、昨夜あったことをゆっくりと思い出していた。
沖田の発作、薫の目的、組織の狙い。
決して諦めないと誓っていたその決心も揺らぎそうな事実。
自分のために、自分の大事な人たちが苦しんでいる。それなのに千鶴にはその人たちを助ける力がない。力がないどころかさらに悪い運命へと引きずり込んでしまっている。
生まれてこなければよかったのかな。
適合者はこの世に生まれるべきではなかったのか。もう今の時代が適合者の自分のせいで動き出してしまっているのなら、いっそのこと薫のタイムマシンで過去に戻り、赤ん坊の自分を殺してしまえば。
そうすれば、変若水はいつまでも未完成の劇薬のままで、こんな悲しい世界が生まれることもなかった。
……よそう。
千鶴はベッドに起き上がると、小さく頭を振って後ろ向きな考えを振り落とした。
道は絶対にあるはずだ。沖田だって諦めていないのだ。
「そうだ、沖田さんは……」
千鶴は立ち上がり、ベッドから下りた。沖田のカバンも靴もある。一体どこに……と千鶴が旅館の部屋の中を探すと、洗面所に倒れている沖田を見つけた。
「沖田さん!」
駆け寄って顔を覗き込むと、沖田の顔は真っ青で額には汗がいくつも浮かんでいる。
「まさか……発作ですか?」
昨夜あったばかりなのに頻度が高すぎる。千鶴は青ざめた。
適合者の千鶴の発作の頻度はあてにならないかもしれないが、でもそれにしてもあまりにも……
『タイムトラベルの負荷を癒さないといけないし、沖田の羅刹の力は、今すごい勢いで沖田の体力を食いつぶしている最中だと思うよ』
昨夜聞いた薫の言葉が千鶴の頭に響いた。
沖田はもしかしたら普通の羅刹よりも早く病状が進行しているのだろうか?普通は三年はもつと言われていた彼の理性は、体力は、三年ももたないかもしれない……
すくい上げた砂が指の間からさらさらとこぼれ落ちてしまうような感覚が千鶴を襲う。焦って必死にかき集めてもするすると抜け落ちていってしまう彼の命……
「お、沖田さん……」
千鶴の血をあげればいいのだろうか?でも血を飲めば飲むほど狂っていくと薫は言っていた。どうすれば……
千鶴が迷っていると、沖田が薄目を開けて千鶴を見た。苦しそうな表情だがかろうじて微笑みが浮かんでいる。
「……今日は、くれないの? お預けとか?」
「沖田さん……」
「あんまり待たされると、僕でもそれなりに苦しいんだけどな」
苦しそうな彼の微笑みに、千鶴は考えるのをやめた。洗面所に備え付けられていたカミソリを取り、迷わずに手のひらに刃をすべらせる。
「……っ」
痛みから思わずあげそうになってしまった声を飲み込んで、千鶴は手のひらを沖田に差し出した。沖田は顔を近づけて苦しげな呼吸を繰り返しながらも、遠慮がちな仕草で血を舐めとる。
しばらくの時が過ぎた後。
「……僕は、君に約束する」
千鶴の手のひらを愛撫するように舐めながら、沖田は落ち着いた声でささやいた。
「どんなに血が欲しくなったとしても、どんなに発作で苦しんだとしても……」
何かに誓うような静かな声音。
「僕はもう。君の血しか飲まない」
「沖田、さん……」
「君は……、僕のそばにいて。僕が狂いかけたら手をかしてほしい」
こみ上げてくる涙を、千鶴は必死に飲み込んだ。
今、泣いてはダメだ。彼の前では。
「……沖田さんを、狂わせたりなんかしません」
もう残された時間は少ない。
沖田が組織を崩壊させるのを待ったり、海外へ逃避行をしている暇はない。
どうすればいいのかわからないけれど、沖田がこのまま血に狂っていくのを黙って見ているわけにはいかないのだ。
千鶴は血の味を口の中に感じるほど強く、唇を噛み締めた。
10へ続く
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